2018/10/31 22:04


まずは、樋貝さんとスケートボードの出会いから教えて下さい。
樋貝 小学校の6年生の時です。親父と一緒に映画『ボーイズ・ボーイズ 』を観に行ったのがきっかけです。
スケートボードを題材にした映画なんですか?
樋貝 劇中に登場するアメリカの小学生たちの日常にスケートボードがところどころ出てくる青春モノです。主人公たちの年齢が自分と近かったこともあり、凄く響きました。
パンフレットを確認すると、昭和53年公開と書いてありますね。この映画は当時流行ってたんですか?
樋貝 そう思います。ロードショーでやるくらいですから。なぜか急に堅いお役人の親父が「映画でも観るか!」って連れて行ってくれて。ふたりで映画を観たのはコレが最初で最後ですね。初めて見るスケートボードがとにかく魅力的で、すぐにデパートで国産のKKMというブランドの板を買ってもらいました。そこから、『スケートボードは僕をロケットにしてくれる』というhow to本を眺めては近所で滑ってました。

樋貝さんの地元ってどちらなんですか?
樋貝 親父が公務員だったから全国を転々としてたんですけど、小学4年からは世田谷です。映画から同じように影響を受けた同級生たちもスケートボードにハマって、みんなで近所を滑ってました。中学生になると、僕以外はみんな部活が忙しくなって、徐々にフェードアウトして、中2くらいでやらなくなってしまいました。
一度スケートボードを辞めた後の中学生時代は何をやっていたんですか?
樋貝 『ピンボケ写太』って漫画に出会うんです。カメラマンを目指す少年の話で、その主人公の影響でオリンパスの一眼を手に入れました。カメラがあるから何かを撮ろうと、旅客機の写真を撮るようになりました。一度好きなものを見つけるとハマる性格なので、毎週、羽田周辺の埋め立て地に通ってましたね。高
3になった時にクラスにもの凄くスケート熱の高いヤツがいて、彼を撮ったのが、僕の初めてのスケート写真です。

この写真がソレですか?

樋貝 そう、渋谷の美竹公園の滑り台です。昼間は子供がいるので、朝の5時に集合して滑ってました。この場所がスケートボードをまたやるきっかけになった気がします。超マイナーになっていたスケートボードを、児童公園で滑るって発想がなんだかパンクな気がして気に入ったんだと思いますね。

高校生の頃からまたスケートボードにのめり込んでいくんですね。
樋貝 そうですね。いつもスケートボードとカメラを持ち歩いてスケーターを撮ってましたよ。この頃(
84年)の東京のスケートシーンって、スケートボードをやってる人は100人くらいしかいないんじゃないかって程の規模感だったんです。だから、日曜日の歩行者天国(代々木公園)かキヨセ(埼玉県新座市)に来てる人はほぼ顔見知りでした。
ホコ天やキヨセ、他にはどういったところに行ってたんですか?
樋貝 日曜日の昼間は、そのどちらかに行って、夕方からは原宿のムラサキスポーツに集まってました。
その当時のムラサキってどんなイメージだったんですか?
樋貝 壁一面にスケートボードとウィールがずらーっと並んでて、パウエルの
Tシャツやバンズの箱が山積みでした。入口には14インチのTVが据え付けてあって、いつもアメリカのスケートボードのビデオが流れていました。スケート専門誌『スラッシャー』や『トランスワールド・スケートボーディング』が創刊された頃だったので、ページをめくっては盛り上がってましたね。プロライダーの店員が接客というか話し相手になってくれて、店先にたむろしているのも日本人だけじゃなく、アメリカンスクールの中高生やベースの外国人もいました。あと、
T19(東京のスケートチーム)の大瀧ヒロシ三野達也も常連でした。2人ともスケートが上手いだけじゃなくて、ファッションも飛び抜けてオシャレで尖ってたんですよ。だから、一緒に滑ってはいましたけど、近寄りがたいというか……、気軽に口をきける感じではなかったです、同い年なのに(笑)。
話を少し戻して、ムラサキで雑誌を見てたって言ってましたけど、当時のそういった雑誌を見る時は、“スケーター目線”なのか“カメラマン目線”なのか、どちらの感覚で見てたんですか?
樋貝 多分、両方ですかね。スラッシャーは写真もレイアウトも雑なんだけど、リアルな雰囲気が直接伝わってきました。それに比べてトランスワールドは、全体的にカッチリとしてるイメージ。あと、トランスワールドの撮影をしていたグラント・ブリテンの撮る写真は宇宙的で「どうやったらこんな風に撮れるの?」って衝撃を受けてました。
樋貝さんはスケートボードをする方と撮る方、どちらが好きだったんですか?
樋貝 決して上手くはなかったですけど、滑ることはかなり好きでしたよ。どっちも同じくらい好きだから今でも続けてるんでしょうね。
なるほど、そうだったんですね。ちなみに樋貝さんは、いつ頃からプロの写真家を目指す決意をしたんですか?
樋貝 中3の時に、自分は受験戦争は無理だなと気がついて、別の道を行くなら好きな写真を仕事にしたいと決意したんです。進路希望欄に「カメラマンになるために写真学科のある大学の付属校に行く」と書き込んだのが最初です。
大学生の頃もムラサキに通ってたんですか?

樋貝 はい、写真学科の講義が終わると原宿に直行する毎日でしたね。課題もスケートボードの写真を提出してました(笑)。

初めて自分の撮った写真が仕事になったのはいつ頃なんですか?

樋貝 大学1年の秋(84年)だったと思うんですが、キヨセで石原繁さんに誘われたんです。その人は、ふたつしか歳が違わないのに、ホコテンでスケートボードの大会を開いたり、ローラースケートでジャッキー・チェンにコーチをするようなマルチな人で、「今度『MOVIN′ ON』って雑誌を作るんだけどカメラマンやらない?」って誘われたんです。

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