Red bull インタビュー | 樋貝吉郎 通販サイト Studio fish i

2018/10/31 22:04

1980年代の日本のスケートボードカルチャーをテーマにした特集や資料などを見ると、そこに使われた写真のフォトクレジットには、Yoshiro Higaiの名前をよく目にすることがある。今回、半生に迫るのは、いつも一眼レフとスケートデッキを持ち歩き、80年代の東京スケートシーンを撮影し続けた写真家の樋貝吉郎。

Written by Hisanori Kato

読み終わるまで:11分公開日:20181010 · 757(UTC+9)





まずは、樋貝さんとスケートボードの出会いから教えて下さい。

樋貝 小学校の6年生の時です。親父と一緒に映画『ボーイズ・ボーイズ 』を観に行ったのがきっかけです。

スケートボードを題材にした映画なんですか?

樋貝 劇中に登場するアメリカの小学生たちの日常にスケートボードがところどころ出てくる青春モノです。主人公たちの年齢が自分と近かったこともあり、凄く響きました。

パンフレットを確認すると、昭和53年公開と書いてありますね。この映画は当時流行ってたんですか?

樋貝 そう思います。ロードショーでやるくらいですから。なぜか急に堅いお役人の親父が「映画でも観るか!」って連れて行ってくれて。ふたりで映画を観たのはコレが最初で最後ですね。初めて見るスケートボードがとにかく魅力的で、すぐにデパートで国産のKKMというブランドの板を買ってもらいました。そこから、『スケートボードは僕をロケットにしてくれる』というhow to本を眺めては近所で滑ってました。



映画『ボーイズ・ボーイズ ケニーと仲間たち』とhow to本『スケートボードは僕をロケットにしてくれる』


樋貝さんの地元ってどちらなんですか?

樋貝 親父が公務員だったから全国を転々としてたんですけど、小学4年からは世田谷です。映画から同じように影響を受けた同級生たちもスケートボードにハマって、みんなで近所を滑ってました。中学生になると、僕以外はみんな部活が忙しくなって、徐々にフェードアウトして、中2くらいでやらなくなってしまいました。

一度スケートボードを辞めた後の中学生時代は何をやっていたんですか?

樋貝 『ピンボケ写太』って漫画に出会うんです。カメラマンを目指す少年の話で、その主人公の影響でオリンパスの一眼を手に入れました。カメラがあるから何かを撮ろうと、旅客機の写真を撮るようになりました。一度好きなものを見つけるとハマる性格なので、毎週、羽田周辺の埋め立て地に通ってましたね。高3になった時にクラスにもの凄くスケート熱の高いヤツがいて、彼を撮ったのが、僕の初めてのスケート写真です。



樋貝さんが高校生の頃に初めて撮影したスケート写真 『JUDO AIR』より


この写真がソレですか?

樋貝 そう、渋谷の美竹公園の滑り台です。昼間は子供がいるので、朝の5時に集合して滑ってました。この場所がスケートボードをまたやるきっかけになった気がします。超マイナーになっていたスケートボードを、児童公園で滑るって発想がなんだかパンクな気がして気に入ったんだと思いますね。

高校生の頃からまたスケートボードにのめり込んでいくんですね。

樋貝 そうですね。いつもスケートボードとカメラを持ち歩いてスケーターを撮ってましたよ。この頃(84年)の東京のスケートシーンって、スケートボードをやってる人は100人くらいしかいないんじゃないかって程の規模感だったんです。だから、日曜日の歩行者天国(代々木公園)かキヨセ(埼玉県新座市)に来てる人はほぼ顔見知りでした。



1985年代々木公園歩行者天国 AJSAコンテストでの集合写真


ホコ天やキヨセ、他にはどういったところに行ってたんですか?

樋貝 日曜日の昼間は、そのどちらかに行って、夕方からは原宿のムラサキスポーツに集まってました。

その当時のムラサキってどんなイメージだったんですか?

樋貝 壁一面にスケートボードとウィールがずらーっと並んでて、パウエルのTシャツやバンズの箱が山積みでした。入口には14インチのTVが据え付けてあって、いつもアメリカのスケートボードのビデオが流れていました。スケート専門誌『スラッシャー』や『トランスワールド・スケートボーディング』が創刊された頃だったので、ページをめくっては盛り上がってましたね。プロライダーの店員が接客というか話し相手になってくれて、店先にたむろしているのも日本人だけじゃなく、アメリカンスクールの中高生やベースの外国人もいました。あと、T19(東京のスケートチーム)の大瀧ヒロシと三野達也も常連でした。2人ともスケートが上手いだけじゃなくて、ファッションも飛び抜けてオシャレで尖ってたんですよ。だから、一緒に滑ってはいましたけど、近寄りがたいというか……、気軽に口をきける感じではなかったです、同い年なのに(笑)。



樋貝吉郎というオトコの半生


話を少し戻して、ムラサキで雑誌を見てたって言ってましたけど、当時のそういった雑誌を見る時は、スケーター目線なのかカメラマン目線なのか、どちらの感覚で見てたんですか?

樋貝 多分、両方ですかね。スラッシャーは写真もレイアウトも雑なんだけど、リアルな雰囲気が直接伝わってきました。それに比べてトランスワールドは、全体的にカッチリとしてるイメージ。あと、トランスワールドの撮影をしていたグラント・ブリテンの撮る写真は宇宙的で「どうやったらこんな風に撮れるの?」って衝撃を受けてました。

樋貝さんはスケートボードをする方と撮る方、どちらが好きだったんですか?

樋貝 決して上手くはなかったですけど、滑ることはかなり好きでしたよ。どっちも同じくらい好きだから今でも続けてるんでしょうね。

なるほど、そうだったんですね。ちなみに樋貝さんは、いつ頃からプロの写真家を目指す決意をしたんですか?

樋貝 中3の時に、自分は受験戦争は無理だなと気がついて、別の道を行くなら好きな写真を仕事にしたいと決意したんです。進路希望欄に「カメラマンになるために写真学科のある大学の付属校に行く」と書き込んだのが最初です。

大学生の頃もムラサキに通ってたんですか?

樋貝 はい、写真学科の講義が終わると原宿に直行する毎日でしたね。課題もスケートボードの写真を提出してました(笑)。

初めて自分の撮った写真が仕事になったのはいつ頃なんですか?

樋貝 大学1年の秋(84年)だったと思うんですが、キヨセで石原繁さんに誘われたんです。その人は、ふたつしか歳が違わないのに、ホコテンでスケートボードの大会を開いたり、ローラースケートでジャッキー・チェンにコーチをするようなマルチな人で、「今度『MOVIN′ ON』って雑誌を作るんだけどカメラマンやらない?」って誘われたんです。



雑誌『MOVIN′ ON


大学生ですでに雑誌のカメラマンをしてたんですね。凄い!  ちゃんとギャラも発生してたんですか?

樋貝 個人が作ってる小規模な雑誌だったのでギャラはなかったですね。でも、毎月のように大阪や、地方の大会に連れてってもらって、フィルムもバンバン使って……、もうそれだけで十分でした。

じゃあ、自分の撮った写真で初めてお給料が発生したのはいつ頃ですか?

樋貝 84年夏に(スティーブ・)キャバレロが初来日して、キヨセにデモに来て、いつものように写真を撮ったんです。その半年後、「トニー・ホークがテレビ番組のロケで西新宿にいるよ」ってムラサキの店長が教えてくれて店員のスラちゃん(西川隆)と即行で見に行ったんです。ちょうどランページを組んでいるところで、トニー・ホークもいたから、たまたま持っていた『ダー』創刊号(伝説のZINE)に使ってもらったキャバレロの写真を見せたんです。すると、「日本の記事をトランスワールドに頼まれてるんだけど、明日写真撮って」ってことになって。その写真がアメリカのトランスワールドに掲載されたんですよ! それの小切手($)が僕のカメラマンとしての初ギャラです。

ZINEとは個人レベルで制作される少部数の出版物の意。



TransWorld SKATEboardingに掲載されたトニー・ホークの西新宿でのジャパンエア 1995


なるほど。じゃあ、その流れで大学卒業後はプロのカメラマンとしてのキャリアをスタートさせたんですね。

樋貝 それ以降に起こった第二次スケートボードブームのおかげで在学中から雑誌の仕事をするようになっていて。卒業する時は就職も考えたんですけど、せっかくこんなに面白いシーンにいるのに、ここで就職したら途切れちゃうような気がして、フリーでやっていくことにしました。

樋貝さんといえば、スノーボードのカメラマンとしても活躍されていますよね。スノーボードの写真はいつ頃から撮り始めたんですか?

樋貝 いちばん最初は85年の『MOVIN′ ON』での大会撮影なんですけど、いきなりはハマらなくて、たまに滑りに誘われた時に、ちょっと撮る程度でした。そうこうしているうちにスケートボードのブームが起きるわけですが、それがひと段落した91年くらいにウィールが小さくなって、シーンが自分にとって難しくなって来てたんです。ちょうどその頃、人生初のスノーボード北米トリップをしたんです。カナダのローカルたちのスタイルは80年代のスケートボードの豪快な雰囲気を継承してるって感じたんです。実際、多くの有名スケーターもスノーボードを始めてました。ジョン・カーディエルやダニー・ウェイが大会に出ていたくらいですから。

確かに80年代のお話は年代をはっきり覚えてらっしゃいますが、それ以降は年代も場所も曖昧ですよね(笑)。

樋貝 そうなんですよ(笑)。92年くらいから98年くらいのスケートに関する記憶が凄く曖昧。

ではその頃はスノーボードばかりを追いかけていたんですか?

樋貝 いえ、スノーボードは多くなってましたが、スケートボードも撮ってました。

一時期は山に篭って撮影してたなんてことを聞いたことがあるんですが。

樋貝 籠るというか、移住しちゃったんですけど。それより前に28歳の頃から命がけでスノーボードの撮影をするようになったんですよ。

命がけ? それはどういった場所なんですか?

樋貝 アラスカやモンゴル、シベリアの山です。まだ誰も滑ったことのないような山を何十キロの装備とカメラ機材を担いで登って、ライダーの滑りを撮りました。ほんとに命がけ。スノーボードのカメラマンというより、山岳カメラマンですね(笑)。

どういったきっかけでそんなことになるんですか(笑)?

樋貝 玉井太朗というカリスマ的スノーボーダーから「こんな企画あるんだけど行く?」って誘われたんです。今考えたらとんでもないことなんだけど、若かったっていうのもあるし、どこかで何か次のステップを求めてた部分もあったので丁度いいタイミングなのかなってことで、「行く!」と即答した記憶があります。

今までのライフスタイルからかなり激変したんですね。

樋貝 激変どころじゃないですよ。今生きてるのが不思議なくらい危険な思いもしたので。

しばらく日本と海外を行き来する生活を続けたんですか?

樋貝 94年から98年は世界中を飛び回ってましたね。北米、ヨーロッパ、カザフスタン、インド南半球のチリ、ニュージーランド……。沢山のいいショットが残ったので、98年にスノーボードの写真集『空(Kúu)』を出したんです。その作業がひと段落した後に東京から北海道に移り住むんです。

えっ? それまた激変ですね。なぜ東京から北海道だったんですか?

樋貝 自分の中での熱量がどうしても山の方に傾いてしまって……。世界を旅すると自分のベースを持ちたいって考えるようになってったんです。それで、98年暮れに北海道のニセコに引っ越しました。

なぜまたそんな思い切った決断を?

樋貝 ニセコは最高の場所なんですよ。モンゴルにも一緒に行ったスノーボーダーの高久智基は既に移住してました。その智基がスケートボード熱に火がついていて、その秋にニセコにでっかいミニランプを作ったんです。あの野坂稔和が設計したんですが、高さ1800mm(エクステンション2000mm)、幅6300mmという、当時の日本でもかなり調子のいいヤツです。東京にはセタコウ、MAPS、アメージングしかなかったので、茨城のエフォートまで行くぐらいでした。ニセコならスノーボードもスケートボードも楽しめるなってことで、ほぼ即決でした。



1994年モンゴル


思い立ったが吉日、必要最低限の荷物だけを持って北海道に移り住む。この時、樋貝氏は33歳。「ニセコの7年間は、スケートボードもスノーボードも自分自身が滑ることに一番熱かった時期だと思います」。そんな彼は毎日ランプで滑り、ニセコの山も滑り倒し、もちろん撮影もした北海道生活だったが、移り住んでからちょうど10年が経った時、あることがきっかけで、北海道から生まれ育った都会の中心へ戻ることに。それは結果的に写真家としての表現方法に新たな活路を見出すターニングポイントとなっていく。その詳細は後編の記事《スタイルのあるスケート写真を求める新たな活路》でお伝えしたい。

(了)

          

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ロングインタビューありがとうございました(from stuido fishi)!!!

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